<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< @河辺のケンタ | main | それってどうよ >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * -

大学教員と学生との関係性

たまにはまじめなエントリも書きますよ。
大学教員と学生との関係、あるいは研究者としての教員と教育者としての教員について。


とある研究室では、その後の進路が研究者だろうが就職だろうがお構いなしに卒論発表会の場でこてんぱんに叩くそうですが。

そもそもここでは大学教員に研究者としての側面と教育者としての側面があるというところから話をはじめるべきなのではないでしょうか。

まず研究者のエートスというのは、相互批判により学問領域全体の進展を図ることなのだと思います。だから学会に行けば(行ったことないけど)疑問点や論理飛躍、ましてや論理矛盾があれば徹底的にそこをつき、激しい批判が交わされるのでしょう(実は研究者という進路をあきらめたのはそれに耐えきれないと思ったからっていうのもあるんだけど、それはまた別の話)
それは、「不祥事の記者会見でマスコミにかなり追及されて、彼らはこちらを怒らせて失言するのを狙っているんだろうけど、われわれは学会である種そういうトレーニングを受けてきているわけだからあの程度じゃ怒らないんですよね」(不祥事の記者会見行ったことのない方は、かの鳥インフルエンザの際の浅田農産の社長が自殺する直前の、マスコミがひどくつっこんでいた、というか人格否定まがいのことまで言っていたインタビューを思い起こしていただけると)という某W先生のことばにも象徴されているように思います。
でもそれは、研究者同士としての関係性であるはず。

一方教育者としての側面からみれば、教員は学生を「指導」していくわけです。だから「卒論指導」という題目で授業が設置されもするわけだし。
ということは第一に、教員には学生が発表会の場で、せめてこてんぱんにされない程度に卒論の方向性を持っていく義務があるのではないでしょうか。もちろんその過程で厳しい批判が飛び出すことは当然あるでしょうが、学士号という、その学問領域において一定レベルに達したという証明ともなる称号を与える/得ようとする以上、教育/学習のプロセスでそれに見合う経験や努力をさせ/しなければならないのは当然であって。
ということは、こてんぱんにされてしまうというのは指導教員の力不足を露呈していることにもなってしまうのでは。

さらにいえば、学問のエートスとは異なってしまうのかもしれないし、こんなのは日本特有のことなのかもしれませんが、研究者にならずに社会に出て行く人に対し、最後の最後を批判で終わらせてしまうというのは、教育効果としては甚だ疑問なのではないでしょうか。
学士(に限らず、学位号)というのは、その学問分野を修めた人だけに与えられる称号なのであって(じゃあ学位(法学)じゃなくて学位(政治学)をくれ、というのはまた別の話)、そうである以上、学位記を受ける側にも「学問を修めた」という実感というか、ある種の自覚が求められるのではないかと思います。
そうでなければ、それこそ大学というのはある種の通過儀礼化してしまって、そこで学んだことなど何の役にも立たないのだから、早く大学出て会社の色に染まれ、というような話になってしまいかねないのであって。
そういう状況における「大学」が果たす役割や効果(大学卒業という資格を大学に4年間在籍した人に付与する、とでも言い表すことができるでしょうか)というのは、少なくとも本来の意味での高等教育機関たる大学の役割であるとはわたしにはとうてい思えません。

理想論かもしれませんが、わたしはそれが実学であるかそうでないかを問わず、大学で学んだことというのは必ずその人のバックボーンになるはずだし、有形無形にその後の仕事や生き方や、いろんな側面に反映してくるし、反映させることができると考えています。翻ってみればそれは直接あるいは間接に、その学問領域にも影響を与えないとは限りません。
実学志向・コスト重視のこの世の中で、「何の役に立つか(一般の人にとって一見)わからない研究」というのは切り捨てられてしまいがちです。でも、少なくとも個人的には、人間が生きている以上、意味のない学問はないのだと思います。それ故、学問を切り捨ててしまうということは、その学問を通して見えていた/見えてきたかもしれなかった人間の一側面を切り捨ててしまうことにつながり、長い目で見れば結果として社会的損失につながってしまうことになります。
そのとき、社会とその学問領域とをつなぐ役割を果たし、社会的損失の発生を防ぎうるのは「外にいる(=研究者ではない)」その研究領域に触れたことのある人しか存在し得ないはず。そのとき「あんな学問はもう嫌い、捨てた」と思われていたのでは、誰も幸せになれないでしょう。

おそらく日本の特徴だと思うのですが、優秀な研究者が教員になる側面ばかり強くて、しかし優秀な研究者が優秀な教育者であるとは当然限らない。教授法はじめ、教育の方法論についても学んでいない教員は多いはずです(その意味で研究者を目指す人が教育実習に行ったりするっていうのは実は大事なことなのかもしれない)。そんな彼らは、もしかすると研究と教育というのをうまく切り分けられていないのかもしれません。むろん両者は密接に関連しているという指摘はあるだろうし、事実そうであることは間違いない(大学院重点化の意義の一つもそこにある)のですが、だからといって何でもかんでもごちゃ混ぜにしていいということではないでしょう。教育には研究とは別の方法論が存在する、ということです。



ちょっと長くなりすぎたかな。。まとまってないですね。
まあ、卒論書かずに卒業する人が何を言っても仕方ないのですが。
大学の中の人になる立場としてはこういうことも考えねばならんのではないでしょうかねぇ。
頭の固いご自身の説に十二分な自信を持っておられる教員を説得するとかいう仕事はしたくないものです。
cerise / たく * 大学 * 09:21 * comments(4) * trackbacks(0)

スポンサーサイト

スポンサードリンク * - * 09:21 * - * -

コメント

うーーんo


教員側の反論はどういうのが想定されると思う?
Comment by あもん @ 2006/02/03 10:00 AM
それこそ(かつての、というか今でも一部は?)うちの学部研究科みたいに、一定レベルに達してないんだから仕方ない的な話になるんじゃないのかなぁ。
最近は「博士号の授与は国際水準にする」とか「優は上限3割じゃなくて3割出す」とか言ってるみたいだけど。

研究職に進むならそれもありだし、むしろそうあるべきかもとは思うけどね。
そうでないのなら(と限定する必要があるかどうかは難しいところだけど)、むしろそのレベルまでうまいこと誘導していくのが教育者の役割じゃない?
学生がサボってるとかならともかくさぁ。
Comment by cerise @ 2006/02/03 10:07 AM
ははぁo


一つの研究室の事例に対するツッコミならまだ分からなくもないけど、研究者のあり方一般に広げられると首肯しがたいなぁo

「教育」っていう言葉の使い方が気になるのぅo
いろいろな意味の「教育」が混在していると思うo
まあ、詳しくは今度口頭でw
Comment by あもん @ 2006/02/03 11:00 AM
きょう、たくとここまで教育しなかった?
Comment by BlogPetのLapin @ 2006/02/06 9:50 AM
コメントする









トラックバック

このページの先頭へ