某家庭教師募集情報にて(都合により趣旨を変えない程度で原形をとどめていません)。
「某塾通塾経験者なら時給は相場の1.5倍
某塾現役講師なら時給はその1.6倍
某塾元講師なら時給はその1.2倍」
うーむ。そこまでやるか。
最近塾講なんてやっててとみに思うのが、この子たちはなんのために勉強しているんだろうっていうことです。
学校なら基本的には行かざるをえないわけだから、それでやる気ない子が増えて学級崩壊とか、ひどい話だとは思うけどそうなってしまうこと自体は不可抗力なのかなと思います。
一方で塾に来るのは、わざわざお金を払って勉強しに来ているということ。それでいてやる気を少しも見せないっていうのは、親に無理矢理来させられているんだろうなぁと。
まさか塾にしつけまで求めてはいないと思いますが、だからといってその子だけ置いていくわけにも行かないし、かといってその子だけ見ていたら全体がちっとも進まないし。
まだ中学くらいならいいけれど(それでも相当よくないと思いますけどね)、高校生とかになって塾に来て、高3なのに「とりあえず内部進学したいので学校の授業のフォローを」なんて言われると、大学に行ってどうするんだろうなあって思います。
親の心情も、とりあえず内心を望む高校生の心情もわかりはしますが、それで大学に行かせて/行ってどうするのでしょうか。
大学って自分で学ぶ場ですよ。
もちろん、そこで学問をやるか、学問は単位取れればいいと割り切ってほかの経験をするかは自由だし、少なくともある程度までは自由であるべきだと思います(それはアドミッションポリシーというか、大学の教育方針として、卒業者に最低限ある程度の学力etcの習得を求め、逆に見れば社会に対して卒業生の「品質保証」を行うことと矛盾することではないと考えます。そのラインを超えた部分をどうするか、の話をしています)。
でも、主体的に学ばない(としか見えない)彼らは、大学に行ってどうするのでしょうか。
大学ではこれをやれとは言われません。授業に出なくたって文句は言われないし、それで単位が取れなくても自己責任です。授業に出ないで自分で勉強して試験一発で優秀な成績を取るという勉強法だって許容されるでしょう(今後はともかく、少なくともこれまではそれが許容されてきたことは間違いありません)。その中で主体性を持たない彼らは、あるいは勉強するかもしれないし、あるいは遊ぶかもしれない。
なんだかんだ言って要領よくやって卒業していく人が多いのでしょう。
彼らは大学で何を得たのでしょうか。
学問の府、「最高学府」である大学で(最高学府は別に東大の代名詞じゃありません。本来の定義で言えば大学はすべて最高学府なのです)、4年間ただなんとなく流されて過ごして。社会人になるためのモラトリアムでしょうか。それが許容されるのでしょうか。
そんなのばかりなら、大学なんていらないと思いますよ。2007年が全入時代だとか何とか言いますが、だったら下の方の大学からどんどん切っていってしまえばいい。「多様性が大事」だとか言っても、大学としての体をなさない大学では意味がありません。そんな「大学でない大学」は放っておいて、むしろ上の方は上の方で切磋琢磨してどんどん世界最高峰の大学になっていけばそれでいいのではないでしょうか。
少なくとも明治期には、「大学」とはそういう存在であったのだと思います。国家有為の人材を育てるという場所だったのでしょう。しかし今や、高校が中学の延長になっただけでなく(都会は知りませんが、少なくとも地方の高校なんて大規模な習熟度別学習システムみたいなものでしょう)、大学もまた高校、ひいては中学の延長になろうとしているのではないでしょうか。
その中で、国際レベルの地位を保つために何ができるのか。「上の方」だけ切り取るとしたらどこで線を引くのか。
一番先頭を走るというのは難しいことで、ただ他国とマラソンをするだけじゃなく、自国集団で置いてきぼりをつくらないように常に後ろに目線を配っていないといけません。でも後ろばっかり見ていたら、前の方には追いつけない。前ばっかり見ていたら、いつの間にか自国内での競争相手はみんな後ろの方に行ってしまって足を引っ張られて遅くなってしまうかもしれない。
そういう中で裏方の舵取りを担うっていうのは、大変だけど一方でやりがいもあることだと自負してもいるのですけれどね。
いずれ法人化した国立大学が財政的に自立すれば、もしかしたら上の方だけで独走していくというのも考えられないではない、のかもしれません。でもそれは、国家全体としてのレベルを下げることにもつながりうるのだから、そう簡単には踏み切れないのでしょうが。
とりあえず自分で勉強する場として、財政学の教科書読んで単位稼ぎに走りましょうかね…いや、それが現実だろうとか言わないで(苦笑
なお、本エントリは「ARTIFACT@ハテナ系」のkanoseさんの
「大学のレポートのコピペ問題」にインスパイアされました。同Blogには普段拝読させていただいている
霞が関官僚日記さんのリンクを経由しました。
ひととおり書いてからkanoseさんが引用されている武田徹先生(この人はRCASTのあの人だよね?>kiki)の
原文をあらためて読ませていただいたところ、示唆的と思うところがあったので、直リンできないので引用させていただきます。
探される方のために、この記事は8/22付のものです。
学生なんて勉強中の身なのだから、レポートが引用や参照のつぎはぎになるのは分かる(原理的にいえば文章なんて全てが他者の言語の引用の束である)。それにしても引用部分と、地の文に繰り込めるまで自分なりに消化した(「つもり」に書き手自身がなれて、読者もそれに納得出来る)部分があるべきだ。で、他者の言語と、他者を内在させた自分の言語の両方が響き合う中で「思想(らしきもの)」の輪郭が示される、それが自分の文章を書くということだろう。こんなの当たり前も当たり前だけど。無断引用はいけませんというのは、アカデミックなお行儀の良さだけでなく、情報的存在としての「自分」と社会との位置関係を言語を通じて知るという普遍性に繋がっている。それを学ぶひとつの拠点が大学であって、だからこそ情報倫理的なことを口うるさく言っていたはずなのだ(逆にお行儀の良さだけを情報倫理として教えていると骨身にならないと思う。ばれなければいいやということにもなるのかも)。
で、そんなコピペ学生に腹が立つかというとそうでもなくて、むしろ哀れに感じてしまう。落としても良かったのだが、不合格までせずに「気づいている」ことが伝わる成績にした。で、腹立たしい気持ちは、彼ら自身よりもむしろ、平気でこうしたレポートを書かせてしまうイマドキの大学の在り方そのものに向かう。
学生の学年からして初犯とは思えず、ということはコピペを見破れなかったか(検索エンジンという情報技術が、考えたり、表現することの中にいかに浸食しうるものになったか知らないでいるのはもはやちょっとまずい)、なんとなくアヤしいと思いつつ、なんらかの理由であえて見ないふり、気づいていないふりをした教員がきっといたのだろう。
しかし、少子化時代に学生獲得に恐々としているのは分かるけれど、大学が大学を名乗りつつその体をなさなくなったら(ザル蕎麦化>『調べる、伝える、魅せる!』)、学生数が数字上揃っていても意味はないのでは。そんな当然すぎる正論がもはや通らないほど大学の、そして学び、自らの言葉を語ることを重んじる社会の状況は危機的なのだろうか。たかがグーグルにやられるなんて情けない。
うちの大学の「CIO」が大学にとって情報化を進めることは死活問題と言っていたのを想起させられました。